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東京高等裁判所 平成6年(う)1081号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金二〇万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金五〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

理由

一  本件控訴の趣意は、検察官片山博仁作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

二  所論は、要するに、次のようなものである。すなわち、原判決は、「被告人は、平成四年七月一五日午後一一時四五分ころ、業務として普通貨物自動車を運転し、埼玉県川口市芝下一丁目一番一号先の信号機により交通整理の行われている交差点を浦和市方面から川口駅方面に向かい直進するに当たり、対面信号機の表示に留意し、これに従って進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、対面信号機が赤色を表示していたのを看過し、漫然、時速約六五キロメートルで進行した過失により、折から左方道路から青色信号に従い同交差点に進入してきたA(当時四一歳)運転の普通乗用自動車を前方約二四・八メートルの地点に初めて認め、急制動の措置を講じたが間に合わず、自車右前部を同車右後部に衝突させ、よって、同人に加療約三か月半を要する右下腿擦過傷、頚椎捻挫の傷害を負わせたものである」との本件公訴事実につき、被告人が対面信号機が赤色を表示したのを看過した過失の事実はこれを認めるに足りる証拠がなく、結局、犯罪の証明がないことに帰するとして、被告人に対し、無罪を言い渡した。しかしながら、本件においては、原審で取り調べた関係各証拠、とりわけ、被害者であるAの供述や証人B子の供述は、自然かつ合理的であって十分に信用でき、これら関係各証拠を総合すれば、被告人が赤色信号表示を看過して公訴事実掲記の交差点に進入したとの過失は優に認められるのであるから、存在しない証拠や不合理な推論を基に偏頗な証拠判断に陥って、A及びB子の各供述の信用性を否定する一方、被告人の供述については、形式的にとらえてその信用性を肯定するなど、証拠の取捨選択及びその評価判断を誤った結果、被告人に右のような過失があったことは認められないとした原判決には、事実認定の誤りがあり、右事実誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

三1  そこで、原審記録を調査して検討するに、原判決が、相手方車両の運転者であるAの、自分の車の対面信号が青色を表示していたという趣旨の供述や、その場に居合わせたB子の原審公判廷における証言中、乗用車(A運転の自動車)の対面信号機が青色を表示していたのを自分も見たという趣旨の供述は、合理性を欠くものであって、信用できず、これに対し、被告人のこの点に関する供述、すなわち、自分は、交差点の対面信号が青色を表示しているのを、その手前四〇ないし五〇メートルで確認した上、時速約六五キロメートルで自分の車を交差点に進めたという趣旨の被告人の供述は、客観的状況からみて合理的であり、結局、被告人が対面信号機が赤色を表示していたのを看過した過失の事実はこれを認めるに足りる証拠がないから、犯罪の証明がないことに帰するとして、本件公訴事実につき、被告人に無罪を言い渡したことは、所論指摘のとおりである。

また、原審において取り調べた関係各証拠によれば、平成四年七月一五日午後一一時四五分ころ、埼玉県川口市芝下一丁目一番一号先の信号機により交通整理の行われている交差点(以下「本件交差点」という。)内で、被告人運転の自動車とA運転の自動車とが衝突事故を起こしたことは明らかであり、本件における基本的な争点が、被告人運転の自動車が、その対面信号機の表示する信号が赤色であるのに、本件交差点に進入したという事実が認められるかどうかということであることもいうまでもない。そして、右事実が認定できるかどうかは、Aの原審第三回公判廷における証言及び同人の司法巡査に対する供述調書第一項ないし第三項(以下「Aの原審供述」という。)並びにB子の原審第二回公判廷における証言(以下「B子の証言」という。)が信用できるのか、これらが信用できないのか、いいかえると、被告人の原審公判廷における供述、検察官に対する平成五年八月一七日付け及び同年一二月一九日付け各供述調書並びに司法巡査に対する平成四年八月一五日付け供述調書(以下「被告人の原審供述」という。)の方が信用できるかどうかにかかっていることも、原判決の指摘しているとおりである。しかしながら、右各供述を含め原審で取り調べた関係各証拠を総合考察すると、原判決が、被告人に対し対面信号機が赤色を表示していたのを看過した過失があったとの事実はこれを認定できないと判示しているところ並びにその理由として右各供述の信用性につき説示するところはいずれも、これを正当なものとして是認することができず、原判決には、この点事実判断に誤りがあるというほかない。したがって、原判決には所論指摘のような事実認定の誤りがあり、右事実誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかである。以下に補足して説明する。

2  関係各証拠によると、次のような事実が客観的に明らかである。すなわち、

(1) 本件交差点は、前記のように川口市芝下一丁目一番一号先所在の、南北に向かう県道川口上尾線(以下「産業道路」という。)に、前川方面から芝樋ノ爪方面に通じる道路(以下「前川道路」という。)が、西南方から東北方に向かいやや斜めの形で交差する、信号機により交通整理の行われている変形十字路交差点であったこと

(2) 被告人は、本件交差点に進入した際、冷凍食品を積んだ普通貨物自動車(以下「被告人車」という。)を運転し、産業道路の第二車線を浦和市方面からJR川口駅方面に向かって走行していたものであるが、産業道路は、本件交差点付近においては、車道の幅員が約一四メートルで、中央線の両側に二車線ずつあり、その両端に幅員約三メートルの歩道があったこと

(3) A(昭和二六年四月九日生)は、普通乗用自動車(以下「A車」という。)を運転して、前川方面(被告人車から見ると、左方)から芝樋ノ爪方面に向かって本件交差点に進入して来たが、前川道路は、本件交差点の手前及びこれを越した付近も、車道の幅員が約七メートルで、中央線によって上り下りの車線が区分され、北側(A車の反対車線側)沿いに幅員約二・四メートルの歩道が設置されていたこと

(4) 被告人車の前部が、被告人車の進行車線上の停止線から二〇メートル位進行した、本件交差点の中央付近の地点に至ったころ、A車が被告人車の進行車線を斜めに横切る形で進行して来ており、A車の後部が右地点(前川道路上の停止線から約二三メートル東寄りの位置で、A車が手前の横断歩道の東側端を越えてから約七メートル進んだ地点)を通過し終わる状況にあったため、被告人車の右前部がA車の右後部に衝突するに至ったこと

(5) Aは、右衝突の衝撃等により、加療に約三か月半を要する右下腿擦過傷及び頚椎捻挫の傷害を負ったこと

(6) 本件衝突が生じたころ、近くに住むB子が、犬の散歩のため、産業道路の、被告人車の反対車線に沿った歩道をJR川口駅方面から歩いて来て、本件交差点に差しかかり、本件交差点で左折し、前川道路を芝樋ノ爪側に向かって進もうとしていたが、被告人車とA車が衝突した音を聞き、振り返って本件交差点の方を見て、本件事故直後の状況を目撃したこと

(7) 本件交差点における信号機の表示サイクルは、被告人車の進行方向の対面信号のそれが青六一秒、黄四秒、全赤二秒、赤二八秒というものであり、A車の進行方向のそれが赤六七秒、青二二秒、黄四秒、全赤二秒というものであったこと、なお、産業道路には、本件交差点から約一五〇メートル浦和市寄りの地点にも十字路交差点があるが、同交差点の信号表示も、埼玉県警察本部の交通管制センターで地域制御され、一サイクルの秒数は、本件交差点のそれと同じ九五秒であるが、青と赤の表示秒数が二秒異なり、産業道路を進行する車両に対するものが青五九秒、赤三〇秒で、交差道路を進行する車両に対するものが赤六五秒、青二四秒であったこと

(8) 本件当時、小雨が降っていたが、本件交差点付近は、街灯、信号機灯、建物照明などにより、それほど暗くない状態にあったこと

などの事実が十分に認定できる。

3  ところで、本件事故当時の状況などに関する、A、B子及び被告人の各供述は、概ね、次のようなものである。

(一)  まず、Aは、Aの原審供述中で、次のような供述をしている。すなわち、自分は、当時、蕨駅に妻を迎えに行くため、普通乗用自動車を運転して前川道路を前川方面から芝樋ノ爪方面に向かって進行し、本件交差点に差しかかった。進行方向の信号の表示が赤だったので、本件交差点の手前の停止線で信号待ちのため停止した。停止していたのは、一分程度だったと思う。その間、産業道路を浦和の方から川口方面に向かって走る車両が一、二台あったが、自分が信号待ちを始めてどの位経ってから、それらの車が通過したか、被告人車のどの位前を走っていたのか、覚えていない。その後、自分の進行方向の信号の表示が青になったので、自分は、ファーストギアで発進し、時速約一〇ないし二〇キロメートルの速度で走り始めた。自分は、左右を確認しながら発進したが、右の方から被告人車が近づいて来るのが見えた。しかし、自分としては、自分の方の信号が青に変わったのだから、浦和から川口方向の信号も赤に変わったはずで、被告人車は、当然に止まるものと思っていたが、速度を落とさなかったため、このままだと、まともにぶつかると思い、アクセルを踏み込んでかわそうとした。しかし、交差点の中央辺りで、被告人の車に衝突されてしまった。衝突したときの自分の車の速度は、時速二五キロメートル位と思うが、はっきりしない。自分が車を発進してから衝突するまでの時間は、自分には長く感じられたが、はっきりとは分からない。衝突後、自分は、車から降りて、首が痛かったので、交差点横の店の前の縁石に、首を押さえながら座っていた。そのとき、駆け寄って来てくれた女性がいたが、その人がB子さんである。B子さんは、そのとき初めて会った人であるが、本件事故の唯一の目撃者なので、自分は、事故後二週間位たってから、B子さんの自宅に事故の状況を確認しに行った。B子さんは、自分は車がぶつかったところは見ていないが、A車の方の信号である芝樋ノ爪方面の信号が青だったのは確かだと言っていた。本件事故の現場において、自分は、被告人と話をしたことがある。どちらの信号が青だったのかというやり取りで、自分としては、停車してから発進したので、私の方の信号が青になったと確認していたのに、被告人は自分の方が青だと言っていた。Aの原審供述は、以上のようなものであるが、AがA車を発進してから衝突事故が発生するまでの時間に関し、その原審公判廷における証言中で、弁護人の「〈ア〉の地点から交差点の中央まで二、三秒くらいで行ってしまうと思いますが、そのくらいの感じですか。」という質問に対し、Aは、「もっと時間がかかったように思います。」と答えている。

なお、Aは、当審公判廷においても、証人として尋問を受けた際、原審におけるのと同旨の供述をするほか、次のような供述をしている。すなわち、自分は、本件交差点の手前で自動車を停止した際には、サイドブレーキをかけ、ギアはニュートラルにして、クラッチから足を離し、フットブレーキを踏んでいた。そして、発進の際は、サイドブレーキを下ろし、クラッチを踏んで、ギアはニュートラルからファーストにしてアクセルを踏み、クラッチを半クラの状態にして少しずつアクセルをふかしていった。自分は、本件事故の現場でB子さんと携帯電話を持って駆け寄ってきてくれた女の人の二人に事故を見ていたかどうか聞いたところ、B子さんは、事故そのものは見ていないけれども、信号を見て渡ったと話してくれた。もう一人の女性は、全く事故を見ていないと言っていた。その際、被告人は、その場にいなかったが、しばらくして戻ってきた。Aは、当審公判廷において、以上のような供述をしている。

(二)  また、B子の証言は、次のような供述である。すなわち、自分は、産業道路と蕨駅との交差点のすぐそばに住んでいる。本件当夜は、犬二匹を連れて散歩の途中、産業道路の東側の歩道を歩いて、本件交差点に差しかかった。芝樋ノ爪方面に曲がるつもりで、そちらの方向を見た。前川道路の芝樋ノ爪方向の信号(〈A〉点の信号。以下、B子の証言において、符号によって場所を特定するときは、B子が立ち会って行われた実況見分の結果を記載した司法巡査作成の平成四年九月一日付け実況見分調書添付の交通事故現場見取図に示された符号による。)が赤だったので、歩道の端(〈ア〉点)に立ち止まって信号が変わるのを待った。当時、自分が曲がろうとした角は、空き地で駐車場になっていたので、いつもなら、曲がって直ぐその駐車場を通り、その向こう側の左方に通じる道路に入るというのが普通の散歩のコースであった。普段は信号を気にしないで通っているが、その夜は雨が降っていて駐車場がぬかるんでいたので、車道を歩くつもりで、自分で曲がる方向の信号だけは確認したのである。そこは危なくない所だが、一応は信号が変わってから走って来る車が来るまでに渡り切れるので、信号を見たのである。以前に犬が車に轢かれて死んでいるので、雨の日だけは気を付けたのである。まもなく、〈A〉点の信号が青になったので歩き出したが、どの位の時間立ち止まっていたか覚えていない。そして、自分が左に曲がって車道を歩き、〈イ〉点まで来たとき、後ろでガチャンという音がした。〈ア〉点から〈イ〉点まで、ただ曲がっただけであるから、五、六秒もかかっていないと思う。ガチャンという音を聞いて、後ろを振り返ってみると、自分の直ぐそばに車のバンパーの止め金が落ちていた。自分は、不思議に思って戻ったところ、信号(〈1〉点)のところで、乗用車がぶつかっていた。自分は、乗用車の運転手に「大丈夫ですか」などと話しかけた。トラックの運転手には、自分から話かけていないが、トラックの運転手の方から「この辺に電話がありますか」などと尋ねてきたので、コンビニエンス店のある位置を教え、そこには電話があるでしょうと言ってやった。また、自分は、乗用車の運転手には、丁度救急車が来たころ、自分も信号を見ていたということを話したことがある。トラックの運転手も、そばにいたので、聞いているかもしれないが、自分から話したことはない。その後、いつだったかは記憶がないが、乗用車の運転手が自分の自宅に来たことがある。そのとき、菓子か何かはもらったが、その外のものは一切もらっていない。乗用車の運転手に有利な証言をしようと思って、自分が信号を見ていたと言ったのでは全くない。B子は、以上のような証言をしている。

(三)  これに対し、被告人は、被告人の原審供述において、ほぼ一貫して、次のような供述をしている。すなわち、自分は、本件交差点の約一五〇メートル手前にある交差点を青色信号で通過した。その直後、本件交差点の対面信号を確認したが、青色であった。時速六五キロメートル位の速度で、ちらちら信号を見ながら進行し、本件交差点の手前四〇ないし五〇メートル位の地点でも、その対面信号が青であることを確認した。その後は信号を見ていたという記憶はない。自分の車が停止線近くの点(〈2〉地点。以下、被告人の供述において、符号によって場所を特定するときは、被告人が立ち会って行われた実況見分の結果を記載した司法巡査作成の平成四年九月九日付け実況見分調書添付の交通事故現場見取図に示された符号による。)に進行したとき、相手の車が左方の道路から交差点に入って来ているのを見た。そのとき、相手の車は、〈ア〉点辺りを進んでいた。自分は、このままではぶつかってしまうと思い、急ブレーキをかけたが、間に合わず、自分の車の右前部が相手の車の右後ろにぶつかってしまった。自分の車が止まったのは、交差点の中の〈3〉点である。事故現場で、Aと話はしたが、自分は青信号で交差点に入ったと言った。B子とは、事故現場でも話をしていないし、B子の自宅に行ったこともない。被告人の原審供述は、以上のようなものである。

なお、被告人は、捜査段階において、一度だけ自己の責任を認める供述をしたことがある。すなわち、被告人の検察官に対する平成四年一〇月二六日付け供述調書(原審検察官請求証拠番号乙第三号)中で、「これまで青信号を主張してきましたが目撃者もいて被害者側の対面信号が青信号を示していたというのならこれ以上争ってもしかたがありませんので事実を認めてもよいと思います」などと述べている。もっとも、被告人は、その後、検察庁から呼出しを受けて取り調べられた際には、右供述を翻し、前回の取調べの際に認めたのは、三回目の取調べで疲れていたからであり、自分は対面信号が青色であるのを確認して走ったなど、再び自己の責任を否定する供述を繰り返すに至っている(検察官に対する平成五年八月一七日付け供述調書(同第四号))。

4(一)  そこで、右3掲記の各供述について、いずれが信用できるか考えてみるに、まずもって、B子の証言については、B子が本件事故の当事者である被告人やAのいずれとも、全く利害関係がなく、Aに一度自宅に尋ねて来られて目撃状況を聞かれたりしたことはあるものの、その際Aから金銭的な利益の提供など全く受けておらず、ことさらに嘘を述べなければならないような立場に立っているとは認められず、結局、B子の証言の信用性に疑念を抱かせるような事情は一切存在しないのである。また、その証言内容をみても、自然な流れに沿ったもので、本件事故現場に居合わせた者の供述として特に不自然なところもなく、事故の目撃者等にときにありがちな誇張して供述するといった点も全くない。すなわち、B子は、事故自体は直接に目撃していないことを当初からはっきりさせているなど、実際に見聞きしたこととそうでないこととを明確に区別して供述している。また、前記2認定の客観的に明らかな事実と対比して、B子の証言に矛盾など存在しない。したがって、B子の証言の信用性は、極めて高いというべきである。

もっとも、この点、原判決は、B子が見たのが産業道路の信号機ではなく、前川道路の信号機だったということは、B子の進行方向から考えて、不合理であるという判断を示している。すなわち、B子は、前記のとおり、前川道路を前川方面から芝樋ノ爪方面に向かう自動車が危険だったから、芝樋ノ爪方向の信号の表示に従い同信号表示が青になったので、歩き出して前川道路を芝樋ノ爪方向に曲がったなどと述べ、また、危険と思った方向の本件交差点の手前に停車していたA車の方も見ていないと供述している。しかも、B子は、弁護人の反対尋問において、内容的にこの点を追及されると、「夜は、ここの方(前川方面)からの車はほとんど来ないのです」などとも供述している。しかしながら、B子が、芝樋ノ爪方向の信号を見たことに関し、前記のように、その理由として、「自分が曲がろうとした角は、空き地で駐車場になっていたので、いつもなら、曲がって直ぐその駐車場を通り、その向こう側の左方に通じる道路に入るというのが普通の散歩のコースであった。普段は信号を気にしないで通っているが、その夜は雨が降っていて駐車場がぬかるんでいたので、車道を歩くつもりで、自分で曲がる方向の信号だけは確認したのである。その場は危なくない所だが、一応はこれから走って来る車が来るまでに渡り切れるので、信号を見たのである。」などと述べているところも、一応は納得できるものである。このように、歩行者が自分の進行方向の信号表示に従って行動することは実際問題としてあり得ないわけではない。したがって結局、B子の証言の信用性は、その見た信号機がいずれであったかということによって左右されるものではなく、この点をB子の証言の信用性を否定する根拠の一つとしている原判決の判断には誤りがあるというほかない。

(二)  また、Aの原審供述も、それ自体としてみても、内容的に合理的で十分に納得できるものである。すなわち、Aの原審供述のもっとも重要な部分である。自分が信号待ちのため、停止線の所で停止し、信号が青に変わったのち、いわゆるマニュアル車のクラッチの操作など行って発進し、本件交差点に入って行ったなどと述べている部分は、通常一般に行われていることと内容的に一致し、何か殊更自分に有利なように実際に行ったことを歪めて供述したと疑わせる状況もない。そして、B子の証言がAの原審供述を内容的に裏付けるものであることも、B子の証言の信用性が右にみたように極めて高いことと合わせ考えれば、Aの原審供述の信用性も高いことを示すものである。

しかも、関係各証拠によれば、Aは、本件事故直後、その場で声をかけてくれたB子らに、直ぐさま、事故を見ていたかどうかと尋ね、同女が事故そのものは見ていないが、信号の表示を見ていたと知ると、現場に駆けつけてきた救急隊員に頼んで、B子にその住所、氏名を聞いてメモしてもらい、その後、同女方を尋ねて信号表示のことなどを確認していることが認められる。Aの事故直後の行動も、Aの原審供述の信用できることを裏付けるものである。

(三)  一方、被告人の原審供述は、内容的にみても、極めて漠然としたもので、とくに当時の具体的状況としてなるほどと認められるような事実は全く述べられていない。そして、右にみたように、Aの原審供述及びB子の証言が信用できることに照らし、Aの原審供述及びB子の証言と対比して、被告人の原審供述中、これらと矛盾する部分は、全く信用できないというほかない。すなわち、被告人が、本件交差点の約一五〇メートル手前にある交差点を青色信号で通過し、その直後、本件交差点の対面信号を確認したところ、信号は青色であったので、時速六五キロメートル位の速度で進行し、本件交差点の手前四〇ないし五〇メートル位の地点でも、その対面信号が青であることを確認した上、本件交差点に進入した旨述べている部分は、当時の客観的状況とも合致せず、これを信用することはできないといわなければならない。

なお、原判決は、被告人の原審供述とAの原審供述及びB子の証言の信用性を判断するに当たり、AがAの原審供述中で、A車が前川道路の停止線付近から発進して衝突地点に至るまでに要した時間が二、三秒に過ぎなかった旨述べているという前提で、Aらの述べるように、A車の発進がその対面信号が青色になった後であるとすれば、時速約六五キロメートルで進行していた被告人車は、本件交差点の手前一五〇メートルの地点にある交差点を出た直後にすでに本件交差点の信号が赤色になっていたのに、これを看過して本件交差点に突入したことになり、さらには右手前の交差点を通過する際、同交差点でも対面信号が赤色を表示していたのに、二つの交差点をいずれも赤信号で通過したということになり、このような無謀な運転を被告人がしたとは考えられないから、したがって逆に、A車の発進がその対面信号が青色になった後であるとする中村の原審供述及びB子の証言が客観的状況と矛盾するという判断を示している。しかしながら、Aの原審供述中には、A車が発進後二、三秒後に衝突が生じた旨述べる部分は全くなく、前記3(一)掲記のように、弁護人がそういう趣旨の質問をしたのに対し、Aは「もっと時間がかかったように思います。」と答えているのであって、原判決の判断は、まずこの点において誤りである。また、原判決が、被告人車の速度が本件交差点の手前の交差点から本件交差点まで、終始、毎時約六五キロメートルであったと認めたことについても、十分な根拠があるものではない。たしかに、被告人は、被告人の原審供述中で、A車を発見したころ、被告人車の速度が毎時約六五キロメートルであった旨述べており、本件衝突時の状況や被告人がA車を発見してから衝突に至るまでの時間的経過などに照らし、発見時の被告人車の速度が毎時約六五キロメートルであったと認めても差し支えないと考えられるが、本件交差点と手前の交差点との間の約一五〇メートルを同一速度で走行したと認める根拠はない。したがって、被告人が二つの交差点をいずれも赤信号で通過するということなどはするはずがないという前提で、Aの原審供述及びB子の証言の信用性を否定した原判決の判断は、Aの原審供述及びB子の証言によってはこのような前提は導き出されないという意味で、到底維持することができず、このような観点からAの原審供述及びB子の証言の信用性に疑いが生じる余地はない。 5 以上要するに、Aの原審供述及びB子の証言と、原審で取り調べた関係各証拠を総合すれば、A車は、前川道路の停止線で信号待ちをした後、対面信号が青色に変わってから発進し、本件交差点に進入したものと認められ、したがって、被告人車は、A車が発進したころには、その対面信号が赤色を表示するに至っていたのであるから、被告人としては、進行方向の信号に十分に留意していれば、時速約六五キロメートルで走行中であっても、本件交差点のかなり手前で信号が赤色を表示していることに気付き、A車と衝突する以前に停止することもできたものと認められるのである。なお、関係各証拠を検討しても、被告人が信号の赤色表示を見落とすに至った経緯ないし事情は明らかでないが、そのような経緯ないし事情が明らかでないからといって、本件においては信号の見落としを行ったことにつき疑念が生じるものでもなく、一方、被告人が赤色表示に気付きながらあえて本件交差点に進入したのかどうかまで検討する必要もないものというべきである。したがって結局、被告人が対面信号機が赤色の表示をしていたのを看過した過失の事実はこれを認めるに足りる証拠がなく、結局、本件公訴事実が証明されなかったとして、被告人に無罪を言い渡した原判決には、所論指摘のような事実誤認があり、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、原判決は破棄を免れない。論旨は、理由がある。

四  よって、刑訴法三九七条一項、三八二条を適用して原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書により、更に被告事件について次のとおり判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、平成四年七月一五日午後一一時四五分ころ、業務として普通貨物自動車を運転し、埼玉県川口上尾線を浦和市方面からJR川口駅方面に向かって走行中、同県川口市芝下一丁目一番一号先の信号機により交通整理の行われている交差点に差しかかった際、対面する信号機の表示を確認し、その信号表示に従って進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、対面する信号機が赤色を表示しているのを見落として、漫然毎時六五キロメートル程度の速度で同交差点に進入しようとした過失により、折から交差道路の左方から青色の信号表示に従って同交差点に進入して来たA(当時四一歳)運転の普通乗用自動車を進路左斜め前方約二五メートルの地点に初めて認め、急制動の措置を取ったが間に合わず、自車右前部をA運転の右自動車の右後部に衝突させ、その結果、右衝突の衝撃等により、同人に対し、加療に約三か月半を要する右下腿擦過傷及び頚椎捻挫の傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)《略》

(法令の適用)

被告人の判示所為は、刑法二一一条前段に該当するので、後記情状を考慮して、所定刑中罰金刑を選択し、その所定金額の範囲内で被告人を罰金二〇万円に処し、右罰金を完納することができないときは、同法一八条により金五〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置することとし、原審及び当審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の事情)

本件は、判示のとおり、被告人の、交差点における赤信号の見落としという自動車運転者としてあってはならない過失によって生じたものであり、被告人が自動車を運転することを仕事としていることを考え合わせると、このような被告人の不注意な運転態度については厳しく咎められても致し方ないといわなければならない。また、発生させた結果も、被害者に加療期間約三か月半という比較的長期間を要する傷害を負わせたもので、決して無視できるようなものではない。加えて、被告人には、業務上過失傷害の罪により罰金刑に処せられた前科もある。したがって、これらの諸事情に照らすと、本件における被告人の刑事責任は決して軽いとはいえない。

しかしながら、本件事故は、雨模様の深夜、交通閑散な状況の下で起きたものであり、幸いにこれにより大きな交通の混乱も起きていない。また、被害者に負わせた傷害も、前記のとおり、加療期間そのものは比較的長期間であるとはいえ、入院治療を要したものではなく、その通院回数も数回に過ぎず、その程度は、必ずしも重いとはいえないことが窺われる。このような被告人の過失や発生させた結果の内容、程度に加え、被告人がこれまで真面目に稼働していることその他、本件に表れたその余の被告人のために斟酌できる諸事情を合わせ考慮すると、本件については罰金刑を選択し、被告人に対して主文程度の金額を科するのが相当である。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 松本時夫 裁判官 円井義弘)

裁判官 河合健司は、転補のため署名押印することができない。

(裁判長裁判官 松本時夫)

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